スペシャル

宝良編 『ほころびる蕾』Girl's Style9月号掲載SS 作:恵莉ひなこ(エレファンテ)

裏庭の方から鳴き声が聞こえて、ひょいと覗いてみると一匹の白い子猫。
オレを見つけると「にゃあ」と少し鼻にかかった声で鳴き、足元に擦り寄ってくる。
しゃがみ込んで足元の猫じゃらしを手折って振ると、嬉しげに飛びついてきた。

「はは、可愛いな」

懸命に前足を動かし戯れてくる子猫は、庭でちょくちょく見かけるうちの一匹だ。
人懐っこくて、一度見かけるとついつい相手をしてしまう。
しばらく夢中になって構っていると、不意に背後で人の気配がした。

「宝良くん、おはよう」

振り向くと、そこには最近面方になったばかりの七緒の姿があった。

「おう、はよ。早いのな、もうちょっと寝てりゃいいのに」
「うん、なんだか目が覚めちゃって……」

大抵の面方は、お天道様が昇りきった午の刻くらいまで寝ているのが常だ。
うちの面方に限らず、遊郭で働いている人は大半がそうだろう。
そして今は辰の刻。 ほとんどの面方はまだ夢の中だ。

(まだ面方に慣れてねぇから、緊張して眠りが浅いのかな……)
(……無理もないよな。ちょっと前までは、オレと同じ裏方だったんだから)

早く面方としての生活に慣れるよう、何か気の利いた言葉を掛けてあげられたらいいのだろうけど……。

(でも、なにを言えばいいんだ……?)

言葉に迷っているうちに、七緒はオレの隣までそっとやってきた。
そのまま、嬉しそうに子猫を見ている。

「…………」

(なんか、上手く言葉が出てこねぇ……)

嫌な空気だとはまったく思わないけど、
誰かと一緒にいて無言というのはオレの性分じゃない。
大抵は何かとりとめもない話をしたり、冗談を言い合ったりする。

(そういえば、七緒ってどういう話題が好きなんだろう……)

付き合いがまだ短い分、七緒に関してはわからないことが多い。
どこの生まれなのかとか、家族はどうしてるのか……とか。

(でもあまり変なこと聞いて、警戒されてもやだしな……)

そう考えると、適当な話題もなかなか思い浮かばない。

(……嫌われたくないんだよなー、多分……)

そんなことを頭の中でぐるぐる考えていると、七緒がそのまましゃがみ込んだ。
子猫に向けられていた視線がオレへと流れ、至近距離で目が合う。

(ち、近っ……!)

心臓がドクンと大きく跳ねる。
一気に縮まった距離に、慌てて七緒から視線を逸らす。
早鳴る鼓動をごまかすように、そっと息を吐いて自分を落ち着かせる。

「この子猫、名前はあるの?」
「い、いや。 特にないかな……」

なるべく自然に受け答えをしながら、横目で気づかれないように七緒へと視線を向ける。

(……可愛い)

さっきは普通に口に出来た言葉を、今度は心の中だけでそっと呟く。
子猫には直接言えるのに、七緒に向けてはとてもじゃないが口にできそうにない。

(……っ、やっぱりだめだ! 何か話さねぇと……!)

「たっ、辰がさ……! 餌、やってるみたいで」

咄嗟に口をついて出たのは辰の名前だった。
七緒は一瞬不思議そうに瞬きをするが、すぐに子猫の話だと気づいたらしく笑顔で答えてくれる。

「そうなんだ」
「意外だろ?」
「うーん……でも、言われてみれば確かに……」

七緒から返ってきた言葉は、予想外の返答だった。

「辰義くん、燈太くんのことも凄く可愛がってるし……小さい子とか動物好きそうな感じがするよね?」
「えっ!」
「え?」

オレが驚くと、七緒もきょとんとした表情でこっちを見た。

「あ、い……いや……」

実際、その通りだから余計に驚いた。

(こんな短期間で、辰のことそんなにわかるくらい接したのか? ……すげえな……)

今まで、そんな奴はいたことがなかった。
もしかしたら七緒は、数少ない辰と親しくなれる人間なのかもしれない。

「……あいつ、動物と子ども以外には無愛想すぎるから。
お前がそうやって辰のことわかってくれるの、すげえ嬉しい」

――だから、これからももっと辰と仲良くなってやって。
そう言いかけた瞬間、心臓がちくりと痛む。

(…………あれ?)

同時に心にもやもやした感情が広がる。

「……でも、なんかちょっと複雑だったりもするんだけど」
「……え?」

気づいた時には、そんなことを口走ってしまっていた。

(や、やばい……! )

またも不思議そうに首をかしげた七緒を見て、オレは慌てて言葉を続ける。

「だ、だってさ……!」
「お前、そんなことがわかるくらい辰と仲良くなったってことだろ?」
「そんなの、ずりぃじゃん」

勢いで言い切ったものの、段々と募る恥ずかしさに耐え切れず、
オレは自分の顔の前に子猫を持ち上げて誤魔化すように言葉を続けた。

「オレとももっと話して、もっと仲良くしてほしいんだけど……にゃー」

最後は苦し紛れに、子猫の両前足をちょいちょいと動かして見せた。

(……って! 何やってんだオレ!)

我に返った瞬間、一層の恥ずかしさが全身を襲ってくる。
いたたまれなくなりながらも、おずおずと子猫の陰から七緒を盗み見る。
すると七緒はちょっと俯きながらも笑ってくれた。

「もちろんだよ……!」
「……!」

そう答える七緒の頬はどうしてかほんのりと赤い。
抑えていた心臓の音が再びドキドキと体中に響く。

「あの……じゃあ、宝良くんは猫派? それとも、犬派?」

「へ?」

唐突な質問に戸惑いながらも、オレは足元に下ろした子猫に視線を落として答える。

「どっちも好きだけど……強いて言えば、犬かな。と、土佐犬とかさ! 格好いいよな」
「ふふ、宝良くんらしいね。んーと……じゃあ、一番好きな季節は何?」
「季節は……夏だな! 暑い中、水浴びすんのとか最高に気持ちいいぜ!」
「そうなんだ、私も夏は好きだよ。それじゃあ、好きな食べ物は?」
「きゅうり!漬け物にしても、そのまま丸かじりしても美味いよなー」
「ふふ、そっか。じゃあ……」

まだ続きそうな質問攻めに、オレは首を傾げながら口を挟む。

「てゆうか、待った! どうしたんだよ急に?」
「あ、ごめんね。いきなり……」
「いや、別にいいけど……」
「もっと仲良くなるために、宝良くんのことを色々知ろうと思って……」
「は!?」

(な、なんだそれ! 素直すぎるだろー!)

いちいち可愛い反応をする七緒に、オレはどうしたらいいのか本当にわからなくなる。

(なんでオレ、こんなに意識してんだよ!)

この先、万珠屋で一緒に働く仲間として接するのに、いちいちこんなに動揺していたらきっと持たない。

(もっとこいつに慣れねぇと……)

そう密かに決意していると、おもむろに七緒が立ち上がりこちらを向いた。

「もう少し話していたいんだけど……、でもそろそろ稽古に行かなくちゃ」
「あ……そ、そっか。そうだな。稽古がんばれよ」
「うん、ありがとう。またね、宝良くん」
「おう」

小走りで稽古場の方へ向かう七緒の背中を見送りながら、
不意に自分も仕事があったことを思い出す。

(……やばい。オレも朝餉の仕度、辰に任せっぱなしだ!)

ただでさえ普段から怖い辰が、今頃どれだけ怒りを溜め込んでいるのか――
そう考えただけで、ぞっと背筋に悪寒が走る。

(でも七緒と楽しく話せたし、その代償だと思えば、まぁ……)

先程までのやり取りを思い返すと、自然と口元が緩んだ。
裏庭にいれば、またこういう機会があるだろうか。

「じゃ、お前もまたな」

子猫の頭を撫で、オレも足早に勝手場へと向かった。

――勝手場へ行くと、案の定辰は不機嫌で、たっぷりと嫌みを言われたけれど……
なぜだかオレはその日一日、上機嫌で過ごすことができたのだった。

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