帳簿付けが一段落して外を見ると、東の空が白み始めていた。
ひとつ伸びをし、気分転換にと廊下に出る。やるべき事はまだ山のようにあるが、なんだか頭が重たい。
(……眠れねぇ日が続くってのも、少し考えもんだな……)
欠伸を噛み殺し、嘆息する。
ここ最近は実稼働に加え、雑務が増えてきたため睡眠時間の短い日々が続いていた。
(どっかで休みでも取れりゃいいんだが……なかなかそうもいかねぇしな)
「和助さん」
不意に名前を呼ばれて振り返る。
歩み寄ってきたのは、新造姿に着飾った七緒だ。こんな明け方近くに会うのは珍しい。
「まだ仕事か?」
「ちょうど最後の大尽がお帰りになったところです」
「そうか……遅くまでご苦労だったな」
「いえ……あの、和助さん……」
遠慮がちに俺の名を呼ぶ。
「なんだ?」
「…………」
けれど、七緒はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、微かに眉根を寄せてじっと俺を見つめてくる。
――和助さんが、心配です。
言葉にはしなくとも、七緒の表情がそう物語っているのが容易にわかる。
(……そんな目に見えてわかるほど、俺は疲れた顔をしていたのか)
ひとつ苦笑を漏らし、俺は踵を返す。
最後の大尽が帰ったのなら、見世じまいの指示を出しに行かなければならなかった。
……が。
そう思った瞬間、足元がふらつく。
「……っ……」
「! 和助さんっ……!」
途端に、焦った声が飛んできて身体を支えられた。
「大丈夫ですか?」
やけに不安そうに言われ、返答に困る。眠くてよろけただけだと言っても、信じるかどうか……。
「…………」
「和助さん……?」
(……どうせ、もう見世じまいだ。少し構ってやるか……)
僅かな沈黙の中、ふと芽生えた悪戯心に俺は思わずニヤリとする。
「お医者様を呼びましょうか?」
「いや、医者はいい。今必要なのは……」
もったいぶるように言葉を途切れさせ、七緒の手を掴んで歩き出す。
背後から感じる動揺した気配が妙におかしかった。
* * *
適当に空いている座敷を見つけ、七緒を押し込んでその場に座るよう言いつける。
戸惑いながらも素直に従った七緒の膝に、俺はおもむろに寝そべり頭を乗せた。
「わ、和助さん……っ!?」
見上げた七緒の頬が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
(……っくく、本当変わらねぇな……)
こうして密着することはこれまでも何度かあったが、その度に七緒は赤面し視線を泳がせる。
今では万珠屋でもそこそこ人気のある新造だが、とてもそうとは思えない生娘っぷりだ。
(初なところがいいってのも、わからなくはねぇが……俺としちゃ、もっと艶っぽい方が好みなんだがな……)
(うちに来てから結構経つのに、艶気が出るどころか宝良なんかといる時は、むしろガキっぽく見えるしな……)
そんなことを考えながら下から七緒の顔を見上げる。
目が合うと七緒は一瞬戸惑った表情を浮かべ、すぐに目を逸らす。
……ほらな、やっぱりこういうところは……と思いながら、何の気もなしにそのまま七緒の顔を見つめる。
(顔立ちは綺麗に整ってるんだよな……)
普段接している分にはそうそう気づかないが、こうして改めて見ると、睫毛も長い。
唇も程よく赤く染まり、思わず触れたくなるほどには弾力がある。
(……ふーん、案外……)
思わずまじまじと見ていると、再び七緒の視線が戻り、不思議そうに首を傾げた。
その瞬間、はっと我に返り思わず苦笑する。
(……俺、今何を……)
今度は俺の方から目を逸らし、短く息をつく。
すると――……何を思ったのか、七緒の手がふわりと俺の髪を撫でた。
「……!」
予想外の動きだっただけに、一瞬思考が止まる。
けれど、同時にふっと身体の力が抜けていくのに気付いた。
(……こいつ、無意識か?)
他の大尽にも同じようにしてるのかと、一瞬野暮な疑問が浮かぶが口には出さずに飲み込む。
そのまま、ゆっくりと頭を撫でる手の流れに任せて目を閉じる。
そうすると不思議なことに、今まで感じていた疲労感が薄らいでいく。
「……」
「あの……和助さん……?」
「いい……そのまま……」
俺の名を呼ぶその声は、なんの抵抗もなく自然に身体に浸透していく。
(……なんか、妙に眠気を誘うな……)
驚くほど静かな気持ちで、俺は目を閉じたまま意識を七緒の手の感覚に集中させた。
* * *
「――……?」
目覚めた俺の視界に飛び込んできたのは、部屋の天井ではなく七緒の寝顔だった。
僅かに身じろぎすると、俺の頭に乗っていた手がぱたりと畳に落ちる。
「……いつの間に……」
恐らく、俺が眠ってから半刻と経っていないはずだが、その間に七緒も膝枕をしたまま眠ってしまったようだ。
「……ったく……無防備な奴だな」
苦笑と共に体を起こし、壁にもたれかかる七緒に声をかける。
「おい。このまま寝こけてんなら、襲うぞ」
つい、いつもの癖でそんな軽口が口を衝いて出る。
しかし、当然のように返事はない。
七緒はなんの警戒心も持たない顔で、安らかな寝息を立て続けている。
「…………」
何故だかそれが妙に気に障り、そのまま細い肩を押した。
七緒の体がゆっくりと畳に横たわる。髪が僅かに乱れるが、それでもこいつは目を覚まさない。
(ここまでしといて、何もしねぇってのもな……)
相変わらずすうすうと眠る七緒の顔へ少しずつ距離を詰める。
(どうせ減るものでもねぇし、口づけくらいしとくか……)
例え艶気がなくガキのようでも、女には違いない。
そう思い、そのまま躊躇いもなく唇を合わせようとした――その時。
七緒の口端が僅かに持ち上がり、微かな声が漏れた。
「……和助、さん……」
「……っ!」
ぎくりと、再び心臓が跳ねた。
まるで、心の奥に住む見知らぬ何者かが、自分の行いを咎めているような……
そんな後ろめたい気持ちに支配され、気付けば俺は体を離していた。
「……ちっ」
短く舌打ちをし、すっかり興をそがれた俺はそのまま七緒に声を掛ける。
「おい、起きろ」
「ん…………え、和助さん……!? あ、あれ……私、どうして……」
体を揺すってやると、七緒がゆっくりと目を開ける。
何が恥ずかしいのか、俺を見た頬がまた朱に染まった。
(こんなんで照れてるようじゃ、やっぱガキだな)
ため息をつき、立ち上がる。
そのまま七緒に手を差し出すと、一瞬迷うように視線を彷徨わせながらも、ゆっくりと手を重ねてきた。
その様子に自然と笑みが浮かぶ。
「そういう仕草は、悪くねぇんだよな」
「え……? 何がですか?」
「……なんでもねぇよ。それより、そろそろ戻るぞ」
「あ……はい」
座敷を出ると、七緒は小走りについてきて隣に並んだ。その横顔を盗み見て、俺は自問する。
――何故、さっき七緒に手を出すのをやめたのか?
(急に名前を呼ばれて、毒気を抜かれただけ……か)
答えは意外とすんなり出た。
だから、続けて湧き上がってきた後の感情を、俺は気のせいだと思うことにした。
遊びで手を出していい女じゃない。こいつは、大事にすべき女だ……そう、一瞬でも思ってしまったことなど。
(思ったよりも疲れがたまってんのか……やっぱり少し寝る時間増やすか)
本気の女を作っても厄介事が増えるだけだ。 今はそんな暇なんて少しもねぇ。
こんな感情は俺には必要ない。
(……第一、こいつは見世のもんだ。)
……――全部、気のせいだ。
了